2008.09.06(Sat)
|
|
2007.12.10(Mon)
昭和44年、宮崎キャンプにて美奈さんに平手打ちを食らわされた 飛雄馬が無神経な橘ルミに対して 「この人の蔑みきった目が君にはわからんのか」 「君だけじゃない。俺も蔑まれている。少しばかりの社会的名声より、 人間の本質を見透かす目に。」 という台詞がありますが人間の本質とはいったいなんでしょう? ルミや飛雄馬のようなお金や名声あるいは外見などのようなものを上辺のものとするなら 人の本質は性格(優しい、意地悪など)でしょうか? 私はそうとは言い切れないと思います。 なぜか、他人に理解できる性格などは当人の内面の氷山の一角であり、とても表面的なものです。例えば周りの人が当人に対して抱いているイメージや性格と (親や友人など人によってそのイメージも異なりますが) 当人が自身の心を内観したときの性格とでは一致しないことが多いと思います。 人によって多くの見方があり、後天的で将来変わってしまう可能性があって一貫性のない「性格」は人間の本質とまでは言えないでしょう。 では人間の本質とはいったい何なのか? それは誰もが産まれたときから備わっている深層心理の奥にある不変のもの(潜在意識)だと思います。 潜在意識は当人さえ気づかずコントロールしにくい無意識の領域です。 私は人間の本質(潜在意識)は純真な善だと思います。 悪い事をするとき良心がうずくといいますがこれは潜在意識の声だと思います。 そういうことをしているときは純真な潜在意識に逆らって行動していると言えます。 宮崎キャンプの橘ルミは怪我をした少女に対して金で何とかしようとする悪女のように 描かれていましたが、生まれたときからこのように嫌な性格の人間がいるでしょうか? 赤ちゃんのときは将来聖者になろうと極悪人になろうと誰もが例外なく純朴で可愛い存在です。 生まれたての赤ん坊は成人よりもはるかに潜在意識が開放的です。 しかし環境や状況、この世でのしがらみや様々な事情などで 成長していくし従い徐々に純真な潜在意識は影を潜め 表面的な個々の性格が出来上がります。 個人の人格の成熟度にもよりますが 性格がまっすぐで癖のない者(成熟)もあれば癖のあるひねくれた者(未熟)も多々あります。 けれど、根本的な芯は人である以上両者とも同じです。 人間はこの表面的な性格をみて人の良し悪しを決めているところが大半だと思います。 しかしそれでは人の本質を見ているわけではなくキャンプ時の橘ルミと同じようにお金や名声などの上辺だけしか見ていない事とまったく変わらないのです。 聖書の中に放蕩息子のたとえという説法がありますが、この話にある放蕩息子の父親はまさに人間の本質を見抜き愛しているからこそ、財が底を尽き苦しむ息子の帰りを暖かく迎える事ができたのです。 美奈さんは人の本質を見抜いたといえるでしょうか? この事に関して言えば 飛雄馬は当てはまりません、ルミのことをいい加減にしてくれと愛想を尽かして 表面的なルミのひねくれた癖を嫌い、まっすぐな美奈を選びました。 作中に蔑みきった目という言葉がありますがその言葉通り 美奈さんがルミや飛雄馬を蔑んでいたとしたら彼女も本質を見抜いたとは言えないでしょう。 実際のところどうなのでしょうか? 純潔白衣の天使、美奈さんは人の本質を見抜いたのか見抜いていないのか・・・。 私としては見抜いている美奈さんであってほしいです。 自分の残り少ない余生を無医村の人々のために懸けたほどの人ですから。
| ホーム |
| |