2008.09.06(Sat)
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2007.11.23(Fri)
偉大な400勝投手カネやん。 カネやんが本格的に巨人の星のストーリーに登場するのは 昭和43年の台湾キャンプの時です。 牧場君から球質が軽くボールが飛びやすいという 致命的欠点を、花形左門両ライバルに漏らしてしまったという手紙をもらい ちょうど深刻な顔をしているときです。 カネやんにガールフレンドから手紙でも来たのかと声をかけられます。 そのあと飛雄馬が変化球を教えてくださいと頼む場面は巨人の星を 知っている方はご存じだと思います。 「わしにお前くらいの若さがあれば既存の変化球などに頼らず 新しい変化球をつくったるわい!」 本物のカネやんもこういうことを言うのかどうか少し気になります。 その後大リーグボールを名付けたり、引退会見で飛雄馬に感銘を与えたりと 各所で活躍します。 私はカネやんと会ったことがあります。 ドリームゲームの前日にファンレターを渡して、特別に部屋に入れてもらいました。 小説巨人の星3(カネやんin台湾キャンプ)にサインをしてもらおうとすると、 梶原一騎と友達だそうで懐かしそうにしておられました。 そして「星リュウマはわしがモデルなんだよ」 とご機嫌に話されました。 この言葉はミスターのように愛嬌があって気に入っています。 星のモデル説は沢村栄治説、村山実説、などありますが カネやんは自分がモデルだということは 梶原一騎から直接きいたことなので間違いないと言っていました。 確かにお父さんが日雇い人夫だったり、甲子園の後に高校中退していたり、 サウスポーだったり・・・ いろいろ共通点はありますね。決定的に違うのは身長です。 本をめくり、左腕投手の星飛雄馬と自分の現役時代を重ねておられたのか、 とても感慨深そうにしておられました。 その後も現役時代について少しお話しました。 本物のカネやんに会った感想は以下のとおりです。 巨人の星でも世間でもカネやんといえば豪快で雄々しい、悪く言えば傲慢で荒っぽい というイメージがあると思います。 確かに実際試合の最中に乱闘騒ぎになったことも多々あります。 しかし、私が実際少しだけ触れたカネやんは豪快で荒っぽいというより きめ細やかな繊細さを感じました。 というのは私(人)に言われることに対してとてもよく敏感に反応します。 あぁこの話は喜んでいるのだな、良い思い出があるのかな…。 この話題は少し不機嫌かな、触れてほしくないのかな…。 表情に表れるのですぐにわかります。 うれしいことには私の見る限り最大限に喜んでくださいます。 その他、帰りに雨が降って私が傘を忘れてしまった時には初対面の人間なのに 自分のことのように心配されました。 とても感受性が豊かな方だと思いました。 もしかするとカネやんが世間に豪快に見せているのはそうした内にある 繊細さと感受性を隠すためなのではないでしょうか。 細やかな自分の気持ちをみんなに知られたくなくて 荒々しい素振りをなさっているだけかもしれません。 これはあくまで私の推測です。 来歴・人物 ![]() 享栄商業高等学校を中退して1950年途中に国鉄に入団。長身から投げおろす快速球と鋭いドロップを武器に翌1951年から14年連続20勝を記録。 1951年9月5日対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成(18歳1ヶ月での達成は史上最年少記録)。1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。 1958年の開幕戦では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪う。同年通算200勝達成。1962年9月5日通算3,509奪三振の世界記録(当時)を達成。 1965年、B級14年選手制度を行使して東京読売巨人軍に移籍し、V9に貢献。 1969年10月10日、シーズン最終戦・対中日戦で球界初の通算400勝を達成したのを置き土産に現役を引退した。また、巨人での背番号「34」は永久欠番に指定された。 私生活では結婚を二度・離婚一度を経験。初妻榎本美佐江とは1955年3月から同棲生活に入り、榎本の芸能活動引退を経て1960年に正式に結婚。しかし榎本の存在がありながら宝塚歌劇団卒業生・雅章子との関係が生じたうえ金田と雅の間に1961年賢一が生まれる(金田-榎本の間に子はない)事態が発生。1963年8月、榎本と正式離婚を経て賢一を伴った雅と再婚。なお金田−雅の間には賢一の他に女児二人があることを公表している。うち一人は1980年代の一時期、洗顔料のCM(父娘共演もした)に出演していた。 引退後は日本テレビおよびニッポン放送の解説者(1979年ごろ、フジテレビジョンプロ野球ニュースの解説者としても出演していた)。1973年から1978年、1990年から1991年にロッテ監督。1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。なお、彼が就任してから千葉ロッテになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。ロッテ監督時代の1978年に名球会を設立。代表幹事を務めている。1988年野球殿堂入り。金田が入団した当時の国鉄はチーム力が弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦が3度、20敗以上6度、入団以来15年連続で2桁敗戦、通算267敗を喫している。この敗戦数を超える勝利数を毎年のように稼ぎ出していた金田の実力は想像に難くない。(金田在籍中の国鉄(1950〜1964年)は3位が1回あるだけで他のシーズンは全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。) 投手として出場して36本塁打を記録したのも日本記録(他に代打として2本塁打)。二リーグ制以後の選手としては、野手転向した選手を除くと、投手として唯一1,000試合出場を達成している(一リーグ制時代を含むと野口二郎投手<517試合登板で237勝、野手や代打を含め1,098試合出場>がいるほか、藤村富美男選手も投手として一定の実績があるため)。このように打者としても一流だった金田が一番強いと思った投手は権藤正利で、彼のカーブは凄かったと語っている。 Wikipediaから引用
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